あなたが、目の具合が悪くなって眼科医に行ったとしましょう。
お医者さんは、あなたの話をろくに聞かないうちに、自分のかけているめがねをはずし、「このめがねをかけてごらんなさい。私はこのめがねをかけて10年になりますが、とてもいいめがねです。あなたにこれをあげましょう」といいました。
あなたは、そのめがねをかけますが、一向によく見えるようになりません。
「これはダメです。何も見えません」とあなたがいうと、「私はよく見えるんだから、もっと頑張ってごらんなさい」
「頑張っても見えないものは見えません」
「何をいっているんだ。せっかく、あなたのことを助けようと思っているのに」
この話だけを聞くとあり得ない話のように思いますが、私たちはこういう会話を実はよくしているのです。
「あの会社はダメです。持っていった提案では通用しません」
「そんなことはないだろう。お前のやり方がまずいんだ。もっと頑張れ。A社もB社もあのやり方でうまくいったんだから」というような会話を、あなたは上司としたことはありませんか?
私たちは、何か問題があると、急いで解決しようとしがちです。この上司のように、顧客のニーズや状況、営業担当であるあなたの考え方を知ろうともせず、とにかく解決しようと焦るあまり、適切ではない指示や方法に走ってしまうのです。
これはつまり、先ほどの目医者さんと同じで「診断せずに処方」しているということです。このやり方では、本当のコミュニケーションを行うことはできません。
よいコミュニケーションをとる鍵は、「まず相手のことを理解するように努め、その後で、理解されるようにする」ことにあるのです。
普通の人であれば、まず「自分が理解される」ことを望みます。それが人間というもので、自然なことです。誰もが自分の言いたいことをわかってもらいたいのです。しかし、そうすると、相手の話したいことや気持ちを完全に無視、または聞いているふりをして、会話の聞きたい部分だけを選んで聞いていたり、もしくは発された言葉のみに注意を向けて集中し、本来の意味を全くはきちがえている危険性もあります。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか? それはほとんどの人が「理解しようとして聞いている」のではなく、「返事をしようとして聞いている」からです。
あなたもおそらく「次に何をいおうか」「何を質問しようか」と頭の中でめまぐるしく考えながら相手の話を聞いているのではないでしょうか。つまり、結局は自分が話すためにしか相手の話を聞いていないのです。
私たちは、聞くことすべてを自分の人生経験や評価基準といったフィルターにかけてしまい、どう自分の経験に照らし合わせ、どう比較できるかを考えてしまうようです。
ほとんどの人は、話をしているとき、理解しようとして聞いているのではなく、答えようとして聞いています。話しているか、話す準備をしているかのどちらかなのです。
聞いている話をすべて自分のパラダイムに当てはめて、自分の判断や経験を相手の生活に投影しようとしているだけなのです。
「そうだよね。気持ちはよくわかるよ」
「私もよくありますよ、そういうことって○○なんですよね」といった具合です。
そういう人は、自分が接している人にも、自分のめがねをかけさせようとしているのです。結果、相手はあなたに話をしたのが無駄だったと感じ、コミュニケーションがうまくいかなくなってしまいます。
そして、そういう対応をする人に限って、何か人間関係で問題が起きたときに、「あの人は何も理解していない」と嘆くのです。
私たちは、普段、人と接するとき、どうしても、独善的になったり、どうやって自分の意見を通そうかと考えたりします。
お互いに理解されたいと思っていても、会話は独り言の応酬のようになってしまい、結局、最後までお互いが理解し合うことなく(どちらかは理解されたと感じていることもままあります)終わってしまうのです。
そして「自分の意見が通らない」「よかれと思ってやったことが迷惑だととらえられた」「きっとあいつは何かたくらんでいる」といった風に、自分が認めてもらえなかったことに腹を立て、相手を責めてしまいます。
コミュニケーションの問題は、基本的に「理解」の相違にあります。「相手の立場に立つ」とは、マーケティングの世界ではよくいわれていることなのに、私たちの生活ではなぜこの考え方があまり活用されないのでしょうか。
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